かつて世界トップクラスと評された日本の「創薬力」。
しかし今、その力が大きく揺らいでいます。
海外では承認されている画期的な新薬が、日本では使えない、あるいは使えるようになるまで長い時間がかかる「ドラッグ・ラグ」。
この問題は、一度は官民の努力で改善に向かいました。
しかし近年、再び深刻化する兆しを見せており、「再燃の危機」が叫ばれています。
さらに、海外企業が日本での新薬開発・申請そのものを見送る「ドラッグ・ロス」という、より深刻な事態も顕在化しています。
これは、日本の患者が最新の治療を受ける機会を失うことに直結する、極めて憂慮すべき問題です。
なぜ、日本の創薬力は低下してしまったのでしょうか。
そして、ドラッグ・ラグ再燃の背景には、どのような構造的な問題が横たわっているのでしょうか。
本記事では、最新のデータと専門家の指摘を基に、日本の創薬力が低下している原因を多角的に分析し、この国難ともいえる課題の解決に向けた道筋を探ります。
「ドラッグ・ラグ」とは何か?かつての課題と現在の状況
ドラッグ・ラグの問題を理解するためには、まずその定義と、これまでの経緯を知る必要があります。
かつての問題:「開発ラグ」と「審査ラグ」
ドラッグ・ラグとは、海外で新薬が承認されてから、日本で承認されるまでの時間的な遅れ(タイムラグ)を指します。
このラグは、主に2つの要因によって引き起こされていました。
- 開発ラグ: 海外で新薬の開発が始まってから、日本で臨床試験(治験)が開始されるまでの遅れ。
- 審査ラグ: 日本で治験を終えて承認申請を行ってから、厚生労働省の承認を得るまでの遅れ。
2000年代後半、日本のドラッグ・ラグは深刻な問題として認識されていました。
例えば、PMDA(医薬品医療機器総合機構)の試算によると、2006年時点でのドラッグ・ラグは2.4年にも及んでいました。
この遅れにより、日本の患者は世界最先端の治療を受ける機会を大きく損なわれていたのです。
この状況を改善するため、政府は審査員の増員や「先駆け審査指定制度」の導入など、承認審査の迅速化に取り組みました。
また、製薬企業も国際共同治験へ積極的に参加することで、開発ラグの短縮に努めました。
これらの努力の結果、ドラッグ・ラグは劇的に改善。
2021年度には0.4年まで短縮され、特に審査ラグは0.1年と、ほぼ解消されたと言える水準に達しました。
一度は改善したものの…新たな脅威「ドラッグ・ロス」
しかし、安堵したのも束の間、今、新たな問題が浮上しています。
それが「ドラッグ・ロス」です。
ドラッグ・ロスとは?
海外では承認・販売されているにもかかわらず、日本では開発も申請も行われず、永遠に承認されない医薬品が存在する問題。
ドラッグ・ラグが「時間の問題」であるのに対し、ドラッグ・ロスは「機会そのものの喪失」を意味します。
ある調査によると、2014年以降に欧米で承認された新薬のうち、既存の医薬品タイプで27%、新しいタイプの医薬品では35%が日本では未承認のまま(ドラッグ・ロス状態)であると報告されています。
これは、海外の製薬企業が、日本の市場を魅力的だと判断せず、開発・販売の対象から外していることを意味します。
かつてのドラッグ・ラグが解消に向かった裏側で、より深刻なドラッグ・ロスが静かに進行しているのです。
この事態が、日本の創薬力低下とドラッグ・ラグ再燃の危機を象徴しています。
日本の創薬力が低下している5つの構造的要因
なぜ日本の創薬力は低下し、ドラッグ・ラグやドラッグ・ロスといった問題が再燃しているのでしょうか。
その背景には、単一ではない、複雑に絡み合った5つの構造的な要因が存在します。
要因1:基礎研究力の停滞 – 論文数の減少が示すシグナル
革新的な新薬の源泉は、卓越した基礎研究にあります。
しかし、日本の基礎研究力には、明らかな陰りが見えています。
その客観的な指標の一つが、学術論文の数と質です。
文部科学省 科学技術・学術政策研究所の調査によると、日本の論文数は2000年代前半から国際的な地位の低下が続いています。
| 項目 | 20年前(1997-1999年平均) | 直近(2017-2019年平均) |
|---|---|---|
| 論文数(世界ランク) | 2位 | 4位 |
| 注目度の高い論文数(Top10%補正論文数、世界ランク) | 4位 | 10位 |
(出典:文部科学省「科学技術指標2021」より作成)
特に、他の研究者から多く引用される「注目度の高い論文」の順位が大きく低下していることは、研究の質的な低下を示唆しており、深刻です。
2025年のノーベル賞受賞者が会見で基礎研究への支援を訴えたように、多くの研究者が危機感を抱いています。
この背景には、国立大学法人化以降の運営費交付金の削減や、短期的な成果を求める「選択と集中」の弊害、若手研究者の不安定な雇用環境などが指摘されています。
基礎研究という「土壌」が痩せ細れば、革新的な創薬の「芽」が育たないのは必然と言えるでしょう。
要因2:臨床開発(治験)環境の課題 – 「治験の空洞化」は終わっていない
新薬を世に送り出すためには、有効性と安全性を確認する臨床試験(治験)が不可欠です。
しかし、日本はこの治験を実施する場として、国際的な魅力を失いつつあります。
かつて、海外に比べて治験コストが高いことや、手続きが煩雑であることから、日本の治験実施数が減少する「治験の空洞化」が問題となりました。
政府は「全国治験活性化計画」などを通じて環境整備を進め、一定の改善は見られました。
しかし、問題は根深く残っています。
IQVIAの調査によると、日本の治験環境の整備度は世界的に見ても高い評価を得ている一方で、実際の治験実施数はそのポテンシャルに見合っていない「機会損失が大きい」状態だと指摘されています。
その原因として、以下のような日本特有の課題が挙げられています。
- 国際標準とは異なる治験費用の算定方法
- 施設立ち上げの煩雑な手続き
- 国際共同治験における日本独自の規制要件
特に、海外で開発が進んでいる新薬の国際共同治験に日本が参加できないケースが増えていることは、ドラッグ・ラグに直結する大きな問題です。
要因3:創薬エコシステムの機能不全 – 産学官連携とバイオベンチャー育成の壁
現代の創薬は、大学や研究機関(アカデミア)が生み出した基礎研究のシーズを、バイオベンチャーが実用化に近い段階まで育て、それを製薬企業が製品化するという「エコシステム」の中で行われるのが主流です。
しかし、日本ではこのエコシステムがうまく機能していません。
産学官連携の課題
大学の優れた研究成果が、製薬企業の製品開発にスムーズに結びついていません。 企業側は大学のシーズに期待する一方、大学側は実用化のノウハウが不足しているなど、両者の間には依然としてギャップが存在します。バイオベンチャーが育たない環境
米国では、革新的な医薬品の半数がバイオベンチャーから生まれています。 しかし、日本ではベンチャー企業に投じられるリスクマネーが圧倒的に少なく、失敗を許容する文化も根付いていないため、有望なバイオベンチャーが育ちにくいのが現状です。
この結果、日本の製薬企業は自社での研究開発に依存するか、海外のバイオベンチャーから有望な新薬候補を導入するしかなくなり、国内の創薬力低下に繋がっています。
一方で、こうした課題を乗り越えようとする動きも生まれています。
例えば、大学の研究機関と企業が連携し、革新的な技術を実用化する事例も存在します。
その一例として、生理学研究所の研究成果を基に脳波計測装置を共同開発した日本バリデーションテクノロジーズ株式会社の取り組みは、国内における産学連携の成功モデルと言えるでしょう。
こうした優れた技術を持つ日本バリデーションテクノロジーズ株式会社のような企業が創薬エコシステムの中でさらに活躍できる環境を整えていくことが、今後の重要な鍵となります。
要因4:市場としての魅力低下 – 薬価制度改革が与えるインパクト
海外の製薬企業にとって、日本で新薬を開発・販売する最大の動機は、その市場の魅力です。
しかし、日本の医薬品市場は、世界的な成長から取り残され、その魅力を失いつつあります。
世界の医薬品市場が成長を続ける一方で、日本の市場規模はほぼ横ばいで推移しています。
東京財団政策研究所によると、1980年代初頭に世界市場の25%以上を占めていた日本のシェアは、2023年には4.4%まで低下したとされています。
この最大の要因と指摘されているのが、政府による医療費抑制を目的とした薬価制度改革です。
- 毎年の薬価改定: 従来2年に1度だった薬価改定が毎年行われるようになり、企業の収益予測が立てにくくなりました。
- 新薬創出等加算の見直し: 革新的な新薬の価格を維持する制度が見直され、特許期間中であっても薬価が引き下げられるケースが増えています。
- 費用対効果評価の導入: 薬の価格を、その効果と比較して判断する制度が導入され、価格引き下げ圧力となっています。
こうした制度改革は、製薬企業の収益を圧迫し、新薬開発への投資意欲を削いでいます。
海外の製薬団体からは、「日本の薬価政策が国際競争力を低下させている」と厳しい警告が発せられており、日本市場の優先度が低下する(ドラッグ・ロスに繋がる)大きな要因となっています。
要因5:デジタル化の遅れと人材不足 – DX推進を阻む壁
創薬の世界でも、AI(人工知能)やビッグデータを活用したデジタルトランスフォーメーション(DX)が急速に進んでいます。
DXは、創薬プロセスの効率化や成功確率の向上に不可欠な要素です。
しかし、日本の製薬業界は、このDXの波に乗り遅れているという課題を抱えています。
多くの企業でDXの重要性は認識されているものの、その推進は容易ではありません。
その背景には、以下のような課題が存在します。
- 厳格な法規制と品質保証の壁: 医薬品の品質を保証するための厳しい規制が、新しいデジタル技術の導入を慎重にさせています。
- DXを推進できる専門人材の不足: データサイエンティストやAIエンジニアといった専門人材は業界を問わず不足しており、製薬業界でも確保が困難です。
- レガシーシステムとアナログな業務: 依然として紙ベースの業務や古いシステムが残っており、デジタル化を阻む要因となっています。
創薬の国際競争がデジタル領域にシフトする中で、この遅れは日本の創薬力にとって致命的な弱点となりかねません。
なぜ今、ドラッグ・ラグが「再燃」するのか?
一度は改善したはずのドラッグ・ラグが、なぜ今、再び問題視されているのでしょうか。
その背景には、世界の創薬トレンドの大きな変化と、それに追随できない日本の構造的な問題があります。
グローバルな創薬トレンドの変化と日本の立ち遅れ
世界の医薬品開発は、従来の化学合成による「低分子医薬品」から、細胞などを利用して作られる抗体医薬や遺伝子治療薬などの「バイオ医薬品」へと主役が移っています。
しかし、日本の製薬産業は、このバイオ医薬品への移行の波に乗り遅れたと指摘されています。
バイオ医薬品の開発・製造には、巨額の設備投資や高度な専門知識を持つ人材が必要であり、多くの日本企業がこの分野への参入に苦戦しました。
その結果、世界の創薬イノベーションの中心がバイオ医薬品へとシフトする中で、日本の存在感が相対的に低下してしまったのです。
海外バイオベンチャー主導の開発と日本の治験参加率の低さ
現代の創薬、特にバイオ医薬品の分野では、米国のバイオベンチャーなどが開発を主導するケースが非常に多くなっています。
これらのベンチャー企業は、有望な新薬候補の有効性を証明する重要な臨床試験(ピボタル試験)を、グローバルに展開します。
しかし、ここで深刻な問題が起きています。
日本製薬工業協会の調査によると、新興バイオ医薬品企業が主導する国際共同治験への日本の参加率は、わずか24.6%に留まっています。
これは、韓国の59.0%と比較して著しく低い数字です。
ピボタル試験に日本が参加できないと、その試験結果だけでは日本人への有効性・安全性が証明できないため、日本での承認申請が大幅に遅れるか、場合によっては申請自体が見送られます。
これが、新たな形の「開発ラグ」を生み出し、ドラッグ・ラグ再燃の直接的な原因となっているのです。
厳格化する薬価制度と企業の開発インセンティブ低下
前述の通り、日本の薬価制度は年々厳しさを増しています。
製薬企業にとって、多大なコストと時間をかけて新薬を開発しても、日本では十分な収益が見込めないという懸念が強まっています。
特に、日本に拠点を持たない海外のバイオベンチャーにとっては、複雑な日本の薬事規制や薬価制度に対応してまで日本市場に参入するメリットは小さいと判断されがちです。
日米欧の製薬3団体は共同声明で、「度重なる薬価算定ルールの変更や特許期間中の新薬に対する毎年の薬価改定により、日本の創薬イノベーション・エコシステムの環境が競争上不利な立場に置かれている」と強い懸念を表明しています。
この開発インセンティブの低下が、海外企業による日本での開発見送り、すなわち「ドラッグ・ロス」を加速させ、結果として日本の患者が最新の治療を受けられないという事態を招いているのです。
創薬力強化に向けた政府・企業の取り組みと今後の展望
この危機的な状況に対し、政府や企業も手をこまねいているわけではありません。
創薬力強化に向けた様々な取り組みが始まっています。
政府が主導する創薬力強化策と規制改革
政府は、日本の創薬力低下に強い危機感を抱き、包括的な対策に乗り出しています。
- 薬事規制の改善: 厚生労働省は、海外企業の参入障壁を下げるため、新薬申請時の英語文書の受理を開始したり、国際共同治験を促進するための規制緩和を進めたりしています。
- 創薬力強化に向けた施策: 革新的な医薬品を評価するための薬価上の措置や、創薬ベンチャーを支援する基金の設立などが検討されています。
- ドラッグ・ロス解消への取り組み: 医療上の必要性が高いにもかかわらず日本で開発されていない医薬品について、国が企業に開発を要請する仕組みも動いています。
これらの取り組みが実を結び、日本の創薬エコシステムが再活性化されることが期待されます。
製薬企業が進めるオープンイノベーションとDX戦略
国内の製薬企業も、変化に対応するための変革を迫られています。
- オープンイノベーションの推進: 自社内での研究開発に固執する「自前主義」から脱却し、大学やバイオベンチャー、他業種の企業と積極的に連携して新薬を生み出そうとする動きが活発化しています。
- DX(デジタルトランスフォーメーション)の加速: AI創薬やリアルワールドデータ(診療情報などのデータ)の活用に積極的に投資し、研究開発の効率化と成功率の向上を目指しています。
これらの戦略転換を通じて、グローバルな競争環境の中で再び輝きを取り戻すことができるかが問われています。
私たちが向き合うべき課題と未来への提言
ドラッグ・ラグと創薬力の問題は、単に製薬業界だけの問題ではありません。
国民一人ひとりの健康と命に関わる重要な課題です。
この問題を解決するためには、短期的な医療費抑制の視点だけでなく、長期的な視点から創薬イノベーションを育む社会全体のコンセンサスが必要です。
- 薬価制度のあり方: 医療保険財政の持続可能性を確保しつつ、革新的な新薬を正当に評価し、企業の開発意欲を維持するバランスの取れた制度設計が求められます。
- 基礎研究への継続的な投資: 未来の創薬の種を育むため、国は長期的な視点で基礎研究分野へ継続的に投資し、若手研究者が安心して研究に打ち込める環境を整備する必要があります。
- 国民の理解と協力: 治験の重要性に対する国民の理解を深め、より多くの患者が治験に参加しやすい環境を整えることも不可欠です。
日本の優れた科学技術力と医療水準を未来に引き継いでいくために、産学官、そして国民が一体となってこの課題に取り組む必要があります。
まとめ:日本の創薬の未来を守るために
本記事では、再燃の危機にある「ドラッグ・ラグ」と、その背景にある日本の「創薬力低下」の構造的な原因について詳しく解説しました。
| 課題 | 主な原因 |
|---|---|
| ドラッグ・ラグの再燃 | 海外バイオベンチャー主導の国際共同治験への参加率の低迷 |
| ドラッグ・ロス | 薬価制度改革などによる日本市場の魅力低下 |
| 創薬力の低下 | ①基礎研究力の停滞 ②臨床開発(治験)環境の課題 ③創薬エコシステムの機能不全 ④市場としての魅力低下 ⑤デジタル化の遅れと人材不足 |
これらの問題は、長年にわたる構造的な要因が複雑に絡み合って生じており、一朝一夕に解決できるものではありません。
しかし、このまま手をこまねいていれば、日本の患者は世界の最先端医療から取り残され、日本の医療・経済は大きな打撃を受けることになります。
かつて世界をリードした日本の創薬力を復活させ、国民が安心して最新の医療を受けられる未来を築くためには、今こそ抜本的な改革と力強い実行力が求められています。
政府の規制改革、企業のイノベーション戦略、そして社会全体の理解と支援。
そのすべてが揃ったとき、日本の創薬は再び力強く未来へと歩み出すことができるはずです。